vol.01

2014.10発行

島根県益田市美都町にある小田又という名の集落。この地を軸に暮らす人たちのドキュメント。


小田又集落を通り過ぎ、軽自動車が  道を進んでいくと、どんつきに大田又という集落がある。2013年の冬のはじめ、雪が降りはじめる頃までひとり大田又に残って暮らしていた斉藤義雄さん(93歳)。益田の市街地に義雄さんが移住したことで、集落に住むものはいなくなった。義雄さんの暮らしていたご自宅まで足を運んでみると畑作業中の息子さん、斉藤秀憲さん(58歳)にお会いすることができた。若い頃に大田又を出て、現在、義雄さんとはご近所暮らしをしている。生まれ故郷であるこの地に足しげく通い、荒れた田畑を再び開墾する。天気の日には父親の義雄さんを大田又に連れてきて、静かな二人の時間を過ごしている。

秀憲:あんたがたばこつくっとったことがあるでしょう。

―― 義雄さんのお父さんはどういう農業をやっていたんで すか?

義雄:ここで田んぼやっておった。

―― そんな昔から。

義雄:やっておりましたよ。この辺みんな田んぼだったんだもの、向こう側も(眼下に広がる谷を指して)。

秀憲:炭窯があちこちにあった。もう朽ちているけれど。

―― 田んぼやりながら、木を切って炭を作って、炭を町の人に売って。

義雄:炭かね。それは組合に出しよった。A

秀憲:森林組合。

―― お生まれになった大正10年、1921年とはどういう時代だったんでしょう。

義雄:人はヨウケ〔たくさん〕おりましたよ。そこにも家がある、こっちにも家がある。こっから見えるとこにも2件くらい。子どもヨウケおりましたよ。仲良し会って言うてね、子どもが集まるの、いっぱい寄り合いまして。都茂奥だけで。

―― 都茂奥って言うと…。

秀憲:都茂奥は小田又、大田又。

―― 子供会的な集まりが義雄さんの子

ども時代からあった?

義雄:小田又でなく、大田又だけの…

―― …子供会があったんですか?

義雄:小田又は家が少ないが大田又は多

いかった〔多かった〕。家を回って、ま

わり講で、お菓子を食べたり。

秀憲:その家が当番で子どもにお菓子

作ったりするん?

義雄:そうそう、まわり講で。こどもは

ヨウケおりよったけ。向こうの方、杉が

植わっとル、あれ、みんな田んぼじゃっ

たけ。

―― それじゃあもっと見晴らしがよ

かったんですね。

義雄:見晴らしはよかった。

秀憲:今とは全然違う。もうちょっと上

がったところは、畑からだったら水平線

がポチポチッと見えて。

―― 水平線!

秀憲:夏だからイカ釣りの漁船がランプ

つけるじゃないですか、だから、それが

ザーッと夜に写るからすごいきれい。その印象が…今でも上がったら水平線が見えるんだけど、あのクルミの木が大きく



なって目の前に…。

義雄:いま、雪がふらんようになりよったけど、昔はようけ降りよりましたよ。一晩に60cmくらい。歩くのもやれん。六尺くらいの板を敷いてね、あの、下まで(遠くに見える細い道を指して)出るんじゃ。そうしたら、ヨウケ子どもおるけぇね、道があくんじゃね。子どもの(歩いた)溝で通路ができる。そこまで板を敷いてその上を歩いた。はまり込むけぇ。そりゃあまあ、長いこと〔期間〕じゃないがね。

―― この山奥に全部で1町歩(1ha)近くあるという、たばこをやり出すきっかけはなんだったんですか?

義雄:とにかくたばこを吸う人が一番多かった頃じゃ。

秀憲:小学校の時あんたがここで薪をくべたりするのを覚えとるけ。この土壁が最初のたばこの乾燥部屋。あちこちに、まだ残っとるところがあるけど。

―― 乾燥までやるんですか?

義雄:ここに穴を掘って薪を焚きよった。

 

秀憲:オヤジはここへ寝て、ずーっと火の当番しよった。薪が切れないように。

あんた、夏にここで寝よったろ?

義雄:何日掛かりよったかな。おおかた一週間くらい掛かるね。

秀憲:畑から収穫してはここで乾燥してそれを束ねてとっといて、で、秋口にそれを全部選別して出すと。

秀憲:土壁の方(最初の乾燥機)は1枚1枚釘に刺して吊して、昔の機械だから1枚1枚葉っぱをとって、あれは木のようになってるけど下の葉と上の葉と全然違うんで、わけて採る。下の葉は下の葉ばかり乾燥させて。たばこのニコチンが違ってくる。

義雄:一枚ずつ採るんです。胴葉、中葉、合中、本葉、天葉って。

秀憲:下から段々熟れていくんで。

義雄:胴葉、中葉、合中、本葉、天葉。

義雄:うえ上がるだけニコチンがひどうなるんじゃ。

秀憲:ピースやらは上の方。

義雄:天葉なんちゅうのはニコチンがひどい。かなり大きい葉ですよ(手で示す)。

秀憲:茎が親指くらいあるから。茎がね、ポキッと折れる。痛くないよ。

―― それは奥さんも一緒にやってたん

ですか?

義雄:うん、いっしょにやりよった。

秀憲:まあ、私らも手伝ったり。

義雄:子どもを雇うて。

―― お菓子渡して?

義雄:お金払うの。ちょうど夏休みだったからね、子ども喜んでくるんじゃ。

―― 息子さんにもお駄賃払ってました?

義雄:どうだったかな(笑)。(写真を指して)家の下に田んぼがあって…。

秀憲:そんな昔じゃないですね(田んぼをやめたのは)

―― 義雄さんこんな最近まで田んぼがんばってたんですね。

義雄:うん。いつまでやってたんかな。とにかく猪がでてやれんけ、やめたんじゃ。

 

 



―― 棚田ですね。そのうち息子さんが復活させるんじゃ?

秀憲:(笑)

―― ここは山の一番上ではないですよね?

義雄:一番上ではないですが、もうちょっと上がったとこが(頂上です)。山の向こうに、又一つ部落があるんじゃヶ。そこに(クルミの木の下を指して)道があってね、ここに出よります。山を越えて。都茂の小学校へ通いよったんじゃ。

―― 義雄さん1921年だから何歳?

秀憲:だから93になる。

―― 戦争は?

義雄:戦争行きましたよ。5年はいました。中国、北辰の方から中国いっぱい回りました。帰ったのが26。それまで中国におりました。

秀憲:本部づきで通信兵を。

義雄:軍隊で、21才で行って。

秀憲:オヤジは呉の海軍工場へ行っておりました。戦後は広電。電車の運転手。少し電車のってたんじゃない。戦争から帰って。

 

義雄:広島電鉄の呉です。呉の市電。

―― 大田又に呼び戻されて帰ってきたのは、人手が必要だったってことですか?

義雄:そうですね。まだオヤジの時にはたばこなんて作ってなかった。まあ、長男じゃけね、どうせ農業せにゃぁしょーない。

―― その戦争の最中の話、思い出したら、嫌なことと良いことと、いろいろありました?

(間)

 

 義雄:いやなことばかり。

―― 話すのが嫌だったら話さないでも結構です。話せることがあったら…。

義雄:いや、別に。やっぱり、弾が来るとこに出るんじゃけね、ええはなしじゃない。(間)とにかく中国じゃけ、マラリア、あれが誰もが1回くらいかかるんじゃ。あれでまいった人が多いね。マラリアの予防薬があるんじゃが、これを飲むとね、胃腸をやられるんじゃ。それで体を弱らせて亡くなった人が多いんじゃ。蚊帳なんかない、蚊がいっぱいおる

から、何かボロを崩して煙を出すんじゃ。それくらいしかできません。

―― ずっと中国中を野営して回ってたということですか。…戦争から戻ってきてやっぱり呉に行ったわけですよね。

義雄:弟がおったけぇね。弟がおったが、弟はとにかく鍬や、手仕事はやるがね、牛をつこうてはあわん〔使うことができなかった〕。そういうこともあって戻ってこいってことになった。

―― たばこはじめたのはご自身ですよね。

義雄:山を開墾するために補助金が相当出るからね。

秀憲:山、山。

 



義雄:全部山だったんです(笑)

―― 当時、この辺、都茂地区では鉱山とかで賑わいはある。

秀憲:自分らの時は子どもも多いかった〔多かった〕し、鉱山の宿舎もいっぱいあって山形とかいろんなとこから人が出稼ぎに、鉱山住宅って言って、いっぱいあったけぇ。

―― 段々と現金がいるような時代になってきたということですかね。昭和40年代以降。じゃあ、たばこやろうって先に決めて開墾をはじめたってことですね。いきなり開墾したような土地でもたばこは育つんですか?

義雄:開墾したような土地がええんじゃ。病原菌がないから。連作すると端から病気が出るようになる。予防せにゃぁ、やれんようになる。じゃけ、たばこ畑でたばこを吸われんのね。

―― どういうことですか?

義雄:バイラスっていうたばこの病気があるんじゃが、たばこ畑でたばこを吸うとそれがドーッと広がるんじゃ。たばこの葉っぱに模様がつく。そしたら商品価値がなくなる。畑でも吸うのは吸うがね、道路へ出て吸うのよ。畑の中じゃあ吸わん。ヨウケ広がるけ。

―― たばこの仕事、一番最初は何からはじまるんですか?

義雄:温床ですね。何月頃じゃったかな。

秀憲:温床もそうじゃけど、専売公社から種をもらうんじゃろ。

義雄:班長さんがそれを持って回って種を蒔いてまわるんじゃね。品種は専売公社があれするんで、こっちには分からん。

いろいろあるんでしょうがね、専売公社がこの地方はこの種って決めとるんじゃね。じゃけ、九州の方とここのほうは違いよったけ。

 

 

秀憲:温床作って。温床もこれだけのたばこだから広い。くぬぎ山から落ち葉を

全部集めて、かなり踏みつめて下に全部敷いて、その次何かいね?柴の上は牛の堆肥?

義雄:そうそう、牛の堆肥。

秀憲:その上はスクモ?

義雄:スクモとか藁。専売公社が指導するんじゃ。たばこの先生っていうのがまわってきてね、指導してまわりよった。都茂に一人旅館におってね、それが順繰りに部落まわりよった。

―― それじゃあ、発酵する熱だけで

秀憲:あと、ビニールかけて。牛は堆肥を作ってくれるから。それを温床に利用する。他は子ども産ませて子どもを出荷する。じゃけ、雌牛を飼って2年くらいで出すのかな、じゃけその収入と堆肥。

―― たばこだけじゃない訳ですね

秀憲:牛はずーっと昔から。

義雄:年をとると使うのに動作がとろくなるんで。それを馬喰いうてね商売にする人がおるんじゃ。この部落にもおりましたよ。この山ひとつ向こう。

牛馬商、っていうがこの辺は牛ばかり。

―― その人が種牛を持ってて種をつけに来る。

義雄:いやいや、それは自分でやるんじゃ。その人は若い牛を連れてきて古い牛



と交換して、古い牛は市へ出して儲けるん。

―― お金を払って?

義雄:お金をもらうことはないです。出すばっかりで。

―― …たばこ栽培をやってて一番大変だったことで、思い出すことあります?

義雄:一番大変だったっていうのは…そうですね…まあ、たばこ吸われんわね。たばこやらにゃヤレンのよ。(笑)

 

2014.07.11録音 

 



以前お話を聞いた時とは違い、遠くを見つめて無言でいる時間が長くなったように感じられた。秀憲さんに義雄さんのことをあらためて伺った。

 

秀憲:随分前から言いよったんだけど、自分でまだ生活ができるから、やっぱり一人でおりたいのね。車を乗る間は「ええよ」と言うとったんじゃけど。どうも去年の秋頃から車の運転に自信がないっちゅうか、免許の更新をするのを本人がためらったから、それじゃあ益田へ出ようよって言うたんじゃ。私もこの春まで現役で仕事をしていたんで。看んとやれんけぇ、自分を育ててくれた親じゃけぇと思って。まあ、思い切って。認知がその頃から少しずつ入っていたのは解っとったけ、それで、去年の春頃から自分のアレ(退職)を考えて出しとったんで…。あっちの道路端の畑は自分も家庭菜園じゃないけど、毎週土日のどっちかあがって、オヤジの様子見ながら、草苅ったり、退職前から何年かやっていたんで。様子見に上がるついでに家(大田又)の周り草かってやらんと、自分でようせんのんで。草苅ったり色々するのにただそれだけで毎週上がるのもあれじゃけ、野菜作ったり。70代はまだ元気じゃった

け、(自分で)草刈り、やりよったよ。80代、段々弱って。やっぱりここで生まれ育ったけ、一番最盛期を知っとるし、もう、荒れてくんがやっぱり「寂しぃー」っちゅう気持ちがすごいあって。

―― 仕事を辞めて、オヤジさんの面倒を見つつ、人生を切り替えたタイミングに、たまたま、僕らが会いに来てしまったと。

秀憲:そうそう。(笑)でも、この畑なんかも荒れた状態だったのを、女房にいわせたら4月からようやったね、って言うんじゃけど。

―― 義雄さんっていうのは、どういう人だったですか?

秀憲:オヤジ?性格的には、自分から見ればすごい優しいっつうか、まぁ、ホント一生懸命朝早くから夕方まで、働きづめ。1haじゃけ、それぐらいせんとやってけんかったじゃろうと思うんだけど。

―― 親の仕事ぶりを見ていて、自分も農業やるんじゃないかなとか思わなかったですか?

秀憲:高校の時は一時ちょっと思ったんだけど、日本の農業が押されてくという、輸入品で下落したりいろんなリスクがあるんで、とても農業じゃ無理かなぁってけ、(自分で)草刈り、やりよったよ。80代、段々弱って。やっぱりここで

生まれ育ったけ、一番最盛期を知っとるし、もう、荒れてくんがやっぱり「寂しぃー」っちゅう気持ちがすごいあって。

―― 仕事を辞めて、オヤジさんの面倒を見つつ、人生を切り替えたタイミングに、たまたま、僕らが会いに来てしまったと。

秀憲:そうそう。(笑)でも、この畑なんかも荒れた状態だったのを、女房にいわせたら4月からようやったね、って言うんじゃけど。

―― 義雄さんっていうのは、どういう人だったですか?

秀憲:オヤジ?性格的には、自分から見ればすごい優しいっつうか、まぁ、ホント一生懸命朝早くから夕方まで、働きづめ。1haじゃけ、それぐらいせんとやってけんかったじゃろうと思うんだけど。

―― 親の仕事ぶりを見ていて、自分も農業やるんじゃないかなとか思わなかったですか?

 

秀憲:高校の時は一時ちょっと思ったんだけど、日本の農業が押されてくという、輸入品で下落したりいろんなリスクがあるんで、とても農業じゃ無理かなぁって 


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vol.02

2015.10発行

島根県益田市美都町にある小田又という名の集落。この地を軸に暮らす人たちのドキュメント。


小田又集落の入り口に、あと一度台風が来たら崩れてしまいそうな納屋がある。ここ数年、納屋周辺の草刈りに年に二度、決まった時期にやってくる倉敷ナンバーのセダン。寺戸武男さん(75歳)は小田又で生まれ、現在は岡山県水島の工業地帯に暮らす。2014年の夏草刈り。小田又の昔の様子を初めて伺うと、近所に暮らす御姉妹のアルバムから1枚の棚田の写真を貸していただいた。小田又の昔の姿を目にしたのは、この時が初めてであった。セピア色した写真の小田又は見慣れた輪郭を残し、今より細かに刻まれた田んぼのラインは国土地理院の地図の等高線のようあった。夏草刈りの雨宿りに、納屋の中でお話を伺った。

[2015.08.21録音]

寺戸:だいぶいっぱい木がおいてあったんじゃ。それを薪にして下に置いてやって、草をおいたら良く燃えたんじゃ。この小屋も初めは藁じゃったんだが、トタンに替えたんじゃ。そんな話すことはないっすよ(笑)。俺らぁもね、18ぐらいで出たんで、昔のことなんか(そんな覚えていない)。ちょっとずつ直せば(この小屋も)使えたんだけど。これなんか、ホントの俺なんかが生まれた頃のやつだもんね。この写真(ph.2)が本当の俺ら生まれた頃のやつだもんね。ここに梨の木があって、あのサザンカがこっちにあったのを移したんだな。今あそこにあるサザンカがここにあったんだ。

―― ここに人がいるんですよ。

寺戸:眼鏡が無いと見えんね。お袋かもしれんね。ここにもおりゃせんかね。オヤジとお袋かもしれんね。これが柿の木で全然変わってないもんね。この辺も田んぼだったがね(水路の上を指さして)。日が当たらんとこでね、こっから道の跡があってずーっと上にあがる道で

そこの上に畑があって、うちのおばあさんがこんにゃく作りよった。

―― お母さんはずっとここで…

寺戸:ここで死んでるわね。平成8年。―― 最近まで弟さんとお母さんが一緒に小田又で暮らしておられた。

寺戸:そうそう。アレが全部面倒見てくれたからね。まあ、あれがいてくれたから俺は助かったんだけれども。

―― 写真(ph.2)に映っている弟さん、随分歳が離れていますよね。

寺戸:16違う6人兄弟の末っ子。あの頃はそりゃぁ親父なんかも多少出稼ぎにでたもんね。俺らの頃は現金収入っていうほどそんなに金はいらんかったもんね。戦後すぐ、(何にも)なかった頃だもんね。その辺がみんな苦労したんだわね。だから、この辺長男あたりで残る人はみんな役場か森林組合か農協か郵便局あたりに使ってもらって、残るんだからね。あの頃はみんな5、6人は家に子どもがおるからね。結局食っていけんからみんな出るわね。都会に出るから今みたいに人がいなくなっちゃったんだね。

 




―― 出たら仕送りとかするんですか?

寺戸:せにゃいかんけど、あまりせんわね(笑)。だから親孝行していないから今頃、申し訳ないから草でも刈って、「勘弁してねぇ」って言いながら草刈ってる(笑)。やっぱり嫌で出てきたけど、生まれたところは歳をとるとものすごく懐かしいね。だから、住んでると何とも思わんけどね、「こんな山の中で、まあ!」と思うけど。やっぱり出て俺らの歳になるとね、寝床の中に入っていると、「あそこに石があったな、あったな」って思い出すわね。やっぱ懐かしいんだね。それでなきゃ帰って来にゃーせんです。うちの女房なんかにいうと「やだ!」なんて言われちゃう。「なんであんなとこ行かにゃぁいかんの」って言われちゃう。(笑)。この辺、子どもはみんな子どもの時から何かはやりよった。みんな、両親が仕事するから、俺なんかはご飯炊いたりね、あれなんかしよった。釜で薪でね。現金収入がないから、昔は田んぼやるのはみな牛でやるんじゃけね、現金収入ないから子ども産まして子ども売るんだぁね。それをどっか持ってって肉牛にするんだろね。あの頃結構牛の値段がよくてね、一匹俺も詳しいこと知らんがね、1年くらい育てて出すんだがね、売ってあの頃だからいい値段じゃなかったかね。

―― この納屋は?

寺戸:ここから向こうが牛の納屋。半分はね農作業したり、この中で稲をこいだり、作業部屋みたいなもんじゃね。

―― この弟さんを撮られた写真。昭和

の36年頃になるんですよね。小田又を出て2年くらいの帰郷の際に…

寺戸:そのくらいでしょうね。

―― この頃は前に見せてもらった写真(ph.1)のように棚田が綺麗に維持できていた時代ですよね。

寺戸:あの写真はね、護岸整備をやって多少周りが良くなってるからね。俺が出て10年もせんうちに工事をやったんじゃないかな。

―― 護岸整備は弟さんの写真より後?

寺戸:後です。この頃はこの川の筋なんて出来てなかったですね。田んぼの水は今、上に溝があるでしょ。あれから取りよったんじゃ。昔からあるんじゃ。俺ら子どもの時からある。

―― 今現役で使ってはいますけど、昭和の遺跡ですね。

寺戸:そりゃ、昔の人が考えて作ったんじゃろうね。わりと昔はこのへんは水害が多いところでね。子どもの時は台風とか大雨とか、ここなんかとかは崖崩れ、山崩れみたいなことになったりね。58年は(都茂川の)面が(家の敷地と)同じくらいになってるからね。58災害(※1)の時に撮った写真見ると、お袋が座ってて、川の面が同じくらいになってたからね。護岸工事の後、砂防があるから水が上からあがってきた。砂防ダムの上からこっちに(流れて)面になるまで上がっておったって。家は大丈夫。俺は家がやられてるかなと思って帰ってきたんですけど、あん時は倉敷、今のとこにいたんですからね。58年だから電話が出んもんだから、2日か3日して帰ってきたん

ですよ。道路に入れんから。今の191号線、戸河内から入ってきたんだけど道川のとこでこんなに道路に穴が開いて通れんじゃぁね。道路が流れてしょうがねえから引っ繰り返して六日市から入って、益田(市街地)まで入ったけど、益田は全滅だもんね。こっちの筋は全部道路が流れてみんなリュックサック背負って行ったけども「道無いよ」って言われて。それで入れんから、引きかえして、匹見はどがーかなぁと思って、あそこ行ったら匹見は通れたんじゃ。匹見からね山越えで美都に出る道があるんじゃが歩いてね。車は通れんよ。道路がダメだから歩いて、来たんだけど。実家はよかって、そしたら、(隣集落の)妹のとこはダメだって聞いて。家から見た感じ、わりと水が出たっていう感じじゃなかったけどね。小田又はそんなじゃなかったけど、(町内で)あっちもこっちも崩れるって言う話はあったね。

 

去年夏草刈りの時に約束した写真を、今年の春草刈りに忘れずに持ってきていただいた。まだ小さな歳の離れた弟さんが、兄である武男さんのカメラを見つめている。

 

―― よう草刈りやりますね。75 才って

いうと、戦前ってことですよね。

寺戸:そりゃぁ、昭和15 年生まれだから。俺ら生まれて1 才になるかならんかの時ぐらいに戦争が始まったんだからね、16年だから。戦争が終わったときは5 つか、昭和20年だからね。今年70年だからちょうど5つの時。小学校は昭和



22年だからね。終わってちょっと一服してから小学校入ってるから。そりゃ教科書なんかでも茶色のちょっとしたら破れるような紙だものね。でも、小学校5、6年くらいになるとグーッと変わってたからね。もう良くなってからはね。着るもんもあったしね。ただ、あの頃はどっこもそうだろうけど、栄養不足だったよね。みんな鼻が出てるし、だから小学校2年の時の写真なんかでも左右違う長靴履いたり、下駄履いたり草履履いたり。

―― 戦争が始まった時の事って、何となく…

寺戸:覚えてない、覚えてない全然。この辺は別に爆撃も何もあるわけじゃぁないからね。ただ、空にアレがB29だって、高いところにビーンと、アレがB29だってことは多少覚えておるがね。まあこの辺は爆撃も何もあらへんからね。

―― お父さんとお母さんは家におられた?

寺戸:オヤジはね子どもの時に中耳炎やって、あのぉ、合格せんかったんじゃぁね。それで終戦近くなって広島の方へ行くってことになったけど、終戦になって行かんかって、オヤジはね。うちの親父が広島へねぇ、終戦近くで、やっぱり人がいないから、徴兵のあれを受けて広島のどっかに行くってことになってね、あの頃はきちっと門を作って紅白のあれを作って、ここへ、それは確か覚えてるな。子どもの時に嬉しかったのを覚えてる。

俺は分からんからね。兵隊行くぞって。俺は27か8の時の子だからね。

―― 30才ちょっと過ぎくらいの出兵ってことですね。

寺戸:結局うちなんか、さっき言ったけど耳が中耳炎でダメだから、甲種合格にならんで、だから、兵隊とられんで良かったんじゃ。ただ終戦近くなって、おらんから、広島連隊に行くっちゅうて、それやったのを覚えてるじゃあね。

―― 赤白の門をお父さんのためだけに作って…

寺戸:そうそう、そこに作ったのは記憶ある。それは俺もよう分からんけどね。そこに石があるでしょ。あの辺に確かあった、まあ、ちょっとしたことだと思うんだけど、ただ子どもの時だから嬉しくてね。分からんから。その記憶はあるね。戦争…で、早く行ってら、原爆あって死んでらぁね。広島だもんね。だから、原爆が落ちて中止になったんだろうね。あれが8月6日でしょう。終戦が8月15日でしょう。だからそれで、オジャンになって行かんかったんじゃないんかね。うちのおじさんなんかは満州行って招集で、結局負けちゃってシベリア行って、シベリアで抑留されて帰ってきたもんね。(親父は)昭和54年に亡くなったからね。ちょうど近くの葬式に行っているところで倒れて、それっきりで。脳溢血かなんかでね。66か何かで。俺は四国に転勤で子どもを連れて、まだ子どもは

小さいからね。で、帰ってきて、でそこで半日くらいは意識はなかったけどね。死に目には会えて。俺が帰ってきてしばらくしてから亡くなったけどね。4月の3日か2日だったか、結構、まだ寒い頃だから。脳溢血でコロッと逝っちゃって。血圧ものすごく高かったんじゃ。普段。

―― 普段仕事は農業だけですか?

寺戸:そうそう、元気だったですよ。「おりゃー死にゃーせんって」言いよったけれど、血圧高かったからね。それで…

―― この辺の小さい田んぼと畑を作って子どもを6人育て上げた。

寺戸:貧乏でね。ずーっと貧乏だった。今でも貧乏だけど。

―― 18才で東京へ出る頃って、出たくてしょうがなかったですか?

 

寺戸:そうだね。嫌だものね。日曜日くらい朝早うから、暗いうちから起きて夜は遅うまで仕事するんだものね。それであんた、お金ないしね。百姓やっても「こりゃー将来やっちゃおれんわね」って皆出るわね。ほとんど皆出たわね。昭和34年に出たからね。もう、だいたい。戦争終わってから日本の景気もどんどんよくなる。やっぱり食えないものね。就職口がないもの。とにかく朝から晩まで泥んこになって飯を食わにゃ何ともならんもんね。39年がオリンピックでしょう。そのときに向こうにいたけど、俺が出てから5年目か。いきなり東京。

 



―― ツテがあったんですか?

寺戸:島根県の副知事が社長でやっておられたガス会社に学校ごとみんな行ったんだ。東京行きゃ、メーター調べて楽できるって。そりゃ就職口がないんだもん。長男は残るけど次男三男はありゃせんものね。

―― 長男じゃないですか。

寺戸:俺は長男だけどすぐ出て…(笑)

―― なんで出ちゃったんですか。

寺戸:やだもん。こんなとこ。機械化はできんしね。こんな細かいからね。お金が無けりゃ生活できなくなったんだ。時代がね。俺ら子どもの時、こんな話よそへ行けばあんまり言わんでね、恥ずかしいから。醤油作る、味噌を作る、みな作りよったんだもん。

―― 別に恥ずかしくないじゃないですか(笑)。奥さんとは東京で…?

寺戸:そうそう、あっちでおるときに一緒になってね。今のところ一緒におるけど、喧嘩しながら(笑)。

―― 初めての東京はどこでしたか?

 

寺戸:一番最初は八王子に行ったな。犬目っていうとこ。ほいで、当時はまだ家がね草葺きの家で、八王子の駅からバスで。あそこにプロパンガス屋の充填所が

あったんだね。50kgのタンクを10kgに移し替えるんじゃ。それを今度東京の奥の方ね、横浜からみんな配るわけだ。それを半年やって、あの頃八王子には自動車の教習所がなくて、どこ行くかって言うたら立川へバスに乗って行って。ほいで、俺なんか田舎で益田でバスなんか年に1回か2回しか乗ってないのに免許取りいって何が何だかさっぱり分からんで(笑)。苦労したわね、取るのに。へたくそで鈍くて怒られちゃってさ、基本料金は会社が出してくれるけど、仮免なんか1回滑っちゃってさ、金がないのに、苦労した。今でも忘れんけど。あの頃は免許も何でも府中の自動車センター行ってね、掲示板にデーっと、34年の10月か11月に取ったんだもんね。それで、取ってすぐね、「お前車乗ってみ」ってトヨエースで道出て、犬目出てちょっといってカーブで曲がらんで電柱へドーン(笑)。新車の車がさ…

―― 会社の車?

寺戸:会社の車。だから、今写真とってあるけどさ。前ちょこっと凹んでらーね。だからね、下手くそだったんでよく怒られた。それで、八王子の裏っ側の拝島街道だったかな、夜誰もおらへんもんね。ポンコツ貸してもらって独り夜練習するの。何とか乗れるようになってね。嬉しかったね。それから免許取って動けるようになったから田無に行ったんじゃ。西武新宿線だよね。

―― けっこう郊外、っていうよりは昔のほんとの田舎ですよね。

寺戸:東京でも横浜でも大きいとこは都市ガスが行ってるから、プロパンガスは

都市ガスが行かんとこへ行くんだからね。だから郊外だわね。

―― どんどん人が増えてるところへいっているわけだ。

寺戸:今なんか皆大都会になってるわ。それから横浜の綱島行ったんじゃ。そこで辞めて、就職して今の会社入ったんじゃ。車関係。トヨタの子会社入ってね。―― 車の仕事に移るきっかけは何だったんですか?

寺戸:それは新聞広告があったもんで入ったんじゃ(笑)。ただそれだけ。運良く入れてもらってね。

―― 上り調子の業界に入ったわけですね。

 

寺戸:一番いいときだ。俺なんかは。どんどんどんどん売れて、往生こきよったわね。めちゃくちゃ忙しかった。だから、よく言うんだけど、今の人はいつリストラになるかわからへんからね。俺なんかの時は仕事はどこ行ってもあるからね。仕事はきつかったけどね。給料も下がることはなかったものね。

―― お子さんいらっしゃるんですか?

寺戸:二人。娘、息子がいて。長男が41かな。

―― 私たちとおんなじ世代です。

寺戸:毎日遅くまでやってるみたいですよ。息子は関東で暮らしていて、結婚して子どもがいて…。転勤で連れまわして、ほいで、倉敷で小学校入ったからちょうど良かったんで、だから動かなかったんじゃ。あそこに家作って。完全に倉敷、水島の人間になったからね。

―― お子さん小田又に連れてきたことあるんですか?

 



寺戸:うん、ここでずーっと遊んでた。しょっちゅう帰りよった。

寺戸:息子なんか、「行ってみたいな」って。メール打って「おい、草刈り来てくれよな」ってメール打ったけど。

 

―― 今度来てくださいよ。一緒に草刈りに(笑)。

(※1)昭和58年7月豪雨災害

7月20日から降り続いた雨は23日未明から最大時間雨量64ミリの猛烈な集中豪雨となり、美都町全域に大災害を引き起こした。道路網を寸断され電気も水も、通信手段のない陸の孤島となった美都町に対し、災害救助法による救援を島根県に要請…

『美都町の動きと山料誌』より

 

【表紙の虫】ツマグロヨコバイ ♂(褄黒横這)

オスの成虫は羽の端(ツマ)が黒く、横に這うのでこの名がついたということであったが、最近の資料では着物の裾の合わせ目の褄(ツマ)のことであったようだ。稲作では「萎縮病」のウイルスを感染させる害虫と記述されることが多いため、農薬散布が現在でも行われている。農薬に対する抵抗性が発達しやすい虫であることから1950年代以降の農薬散布により天敵が減ったことで逆に大発生したと考えられる。刺されるとチカッとする。5mm。

『田んぼのめぐみ150』(農と自然の研究所他編)参照

 

島根県益田市美都町都茂、水稲生育試験のためのバケツ苗より2015.09.29採取

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2012年に島根に移住し、小野さんと出会ったことから農業に足を染めることとなった。唯一の師匠であった小野さんとの一年を記録。

かつての集落と現在との定点観測



写真家・那須悠介氏による小田又の写真集

小田又

1976年愛知県生まれ、写真家。神奈川県横須賀市在住]


 旧知の佐原さんを訪ねて島根に行ったのは三年前のこと。僅かな滞在ではあったが、付きっきりの指導のもと、草刈りや稲刈り、大蒜の植え付け等を体験させてもらった。私自身農業に関心があったという訳ではなく、震災をきっかけに島根に移り住んで農業をしている佐原さんが気になっていた。更に言えば、年に一度送られてくる「小田又の記」を読んで関心を引かれていたのもあったのだと思う。それから暫くして、佐原さんから「一年間のうち季節を変えて何回か小田又に来て写真を撮って欲しい」という依頼が来て、私は小田又を撮影することになった。

 

 最初の撮影は去年の六月で、「写真にすること」を頭に置いて小田又に日参してみたが、どう撮影すれば良いか分からなかった。「写真にすること」とは、言い換えれば「眼前のものを絵になる光景として切り取ること」で、そこには撮影者が何をどう見ているかが如実に表れる。私の目に映る小田又は、山間の川筋を傾斜そのままに田んぼにした土地に過ぎなかった。さしたる手応えを感じられぬまま6月の撮影を終えてフィルムを現像してみたが、予想通り良い結果を得ることはできず、撮影方法を変えるしかなかった。私はそれまで撮影に際しては、余計な先入観を持たぬよう予備知識を最小限にとどめておき、大まかに決めた範囲を光の状態が良い日を選んで歩き回り、眼前の光景を知覚しようと欲して写真を撮っていたが、小田又を含め限られた土地を、農作業の進行に合わせて日程を組んで撮影する際にその方法は有効ではない。また、先に述べたように小田又をどう見るかが何より重要なのは明らかだった。以後の撮影から私は、小田又で暮らす人や小田又に関わる人たちに話を聞き、そこで行われている農業が如何なるものかを知見するように努めていった。

 

 (小田又及びその周辺の土地は、区分で言えば中山間地域に属する。日本の総土地面積の約七割を占め、耕地面積、農家数は四割を占めているという。しかし、農業において有利な土地ではない。平地に比べて労力がかかり、それでいて収量は劣る。国からの交付金はあるものの労力に見合っているとは思えない金額で、そのことは中山間地域における耕作放棄地の数に表れている。)

 

 撮影を通じて私が小田又で最も多く目にした作業は草刈りだった。草を刈り木々を伐うことは、道を開き見通しを良くするだけでなく、生活を営むにも農業をするうえでも重要な仕事で、そのことにより周囲の山々に生息する獣たちを集落から遠ざけたり、田畑に侵入する作物に有害な虫たちの数を減らすことができる。時期が来れば一気に増殖し繁茂する植物を食い止めるのは容易ではないが、人が営みを続けるには不可欠な労働だということが分かった。草を刈るのはそこで暮らす人だけでなく、かつて暮らしていた人、田畑を借りて耕作する人、森林組合から委託された人が行うこともある。そうした管理や保全にまつわる予算の確保をする人もいれば、集落の周辺に罠を仕掛けて里を荒らす獣を捕らえる人もいる。小田又のように広くない土地でも多くの人手によって維持されているのだ。

 

 撮影を始めた頃、街に暮らす私には人の手が入った景観は正直どこか面白味が欠けるように見えていた。それよりは獰猛に生い茂った草原や古びたり朽ちた家々のほうが写真にするには良い光景と思えたのだが、やがてその思いは薄れて、人の手仕事やその成果を見ることのほうが面白いと感じるようになっていた。人口が減り、人の手が入らない広大な土地に囲まれたなかで、その領域は驚くほど狭いが、細かく見ていけば切りがないほどの工夫に満ちている。

 

 

 「写真にすること」には、まやかしの危険が付きまとう。撮影者にとって都合が良いものだけを見ようとしたり、あるいは都合が悪いものを見ないようにすることを撮影者自身でも意図しないまま行ってしまうことがある。美意識を盾にそれらを正当化することは可能かもしれないが、その美意識こそがまやかしの元なのではないか。よく見てみれば、何気ない光景などというものはない。そこに人間の力が介在するならば、そこには自然と折り合いをつけようとする現状の姿がある。私はその姿を写し取ることしかできないとしても、それが如何なるものかをしっかりと見て写さなければならないと思った。

 

 




富山より

清水康彦

[一九六五年富山県生まれ、有機水稲農家。島根県浜田市弥栄町在住]


 インド、ダージリンではこの二月、オーガニックの認証を表示した茶畑があった。去年の冬はドイツ、フランスのオーガニックスタディツアーで、特にドイツではミュンヘンの駅にオーガニック専門のスーパーがコンビニのように人で賑わっていた。日本ではフランスのビオセボンというオーガニック専門店が麻布に出店したが、近くのスーパーの人混みとは程遠く閑散としていた。ドイツではチェルノブイリの原発事故以降、オーガニックの市場が増えたという説明を受けたが、日本では有機水稲の圃場面積は以前より減っていて、この国が世界と違う方向に向かっていると感じていた。

 

 自分が農業を始めたのは子供の頃から自然が好きで、環境問題に関心があったからだ。手塚治虫や椋鳩十に影響を受け、家から見える富山の立山連峰はそれを眺めるのが大好きだった。しかし、近くを流れる神通川はイタイイタイ病で有名で、家の川向こうの田んぼは確か土がカドニウムで汚染されているために、刈り取った米はどこかに廃棄されていた。そしてこの富山のトロッコ電車で有名な宇奈月温泉の宇奈月の大規模法人農家で米作りを始めたのが最初の本格的な農業の仕事だった。

 

 それまで自分は農業の経験が全くないので、トラクターとかには乗せてもらえず、主に農薬散布が自分の仕事だった。作業受託も含め、五十町近い面積の畔に除草剤を散布する仕事だけでパートの応援を入れても一週間以上はかかったと思う。マスクもせずゴム手袋もしないで直接手に触れてもいたし、防除の時も同じでそこら中に飛散する農薬の粒剤は、その特有の臭いが忘れられない。倉庫には五十町分の農薬が山ほど積み上げられ、ここでは育苗でその伸びすぎる成長を抑えるために、成長不促進剤のような薬品も使っていたが、そんな仕事を二年間続けた後、自分はこの会社を辞める事にした。

 

  田植えの時、現在は使用禁止MO乳剤という除草剤を田植え機から直接流し込み、会社の経営者がこの薬品は土中で安全な物質に分解するので安全と言いながら、作業中に田んぼが除草剤まみれになるのが嫌だと言って、散布をやめたことは今でも忘れられない事だ。化学的に安全と言われれても人としての直観でこれだけ大量になるとこんな事してはいけないと感じてしまうのは当たり前だと思う。例えば現在住んでいる田舎では除草剤は安全だと思っている人は多いが、散布する量が五十町で田植えや畔などに一年中撒いていたら、これはやってはいけないと思うだろう。そして二度と農薬は撒かないで農業を続けることを決意する。

 

 

 

 

 今から十数年前の富山では有機農業をする事は困難で、島根県の弥栄村の弥栄共同農場に農業研修生で入植する。当時の日本では珍しい除草剤を使わないで米作りをしている、その技術を学んで富山に帰るつもりだった。しかし、みんな素人集団で地域で農業のプロと言える人は誰もいない。当然、収量は全くなくて、富山に出稼ぎまでする貧しい生活が何年も続いた。そして自分の転機が訪れたのは石川県、能登の西出隆一さんとの出会いだった。有機農業は土作りが一番大切で現代の農業は機械ばかりにお金を使っているからダメなんだと言われた事ではっと目が覚める思いがした。元々自然農的有機農業を目指していた自分は肥料を抑え、土作りは二の次で除草さえできれば有機米はできると考えていた。以降自分の米作りは変わり、その後更に小祝政明氏の指導で肥料設計を細分化し現在に至り、生活も少しづつ安定するようになる。

 

 自分が目指しているのは循環型農業で例えば農薬がそうであるならば使ってもいいと思っている。しかし、富山の法人農家にいた時の田んぼには何もいなかった。それは大量生産の工業生産のラインでしかなかったと思う。弥栄の自分の田んぼは多種多様な生命が存在し、時々メダカのような魚も泳いでいる。確かに刈り取りには死んでしまうかもしれないが、それは、また再生する。生命に人も他の生命体もその価値は同じだと思う。自分が農業を始めたのはやさしい社会を求めていたからで、それは人だけに対してではない。かつて自分が歩いた十数ヶ国ではその環境がどんどん悪くなっていると感じ、地球温暖化はその勢いを増しているような気がする。砂漠化が進む地球で愚かな人間はその緑化ではなく、除草剤を撒き続けている。地元のばあちゃにあなた一人が頑張ってもどうしようもないと言われた事もあるが、去年の稲刈りに子うさぎが田んぼから出てきた時、自分の行動がそんなに間違っていないと感じた。きっと今年も、そう感じながら鍬を手にしているだろう。